komakomaobabaのブログ  

80歳オオババサマと61歳のオババの可笑し楽し日々

愛知県葉栗郡木曽川町。。。オオババサマの実家

オオババサマの生まれた町です。

往還南。。。国鉄木曽川駅の駅前。

タクシー屋さんがあり、酒屋さんがあり、旅館があり、時計屋さんがあり、

食堂があり、八百屋さんがあった。。。大きな踏切の前にお家がありました。

オオババサマのお父さんがカフェを開店したのです。

カフェ・ナポリ。。。昭和の初めのことでした。

 

そのお父さんの実家は北方町。

木曽川の堤防のすぐそばでした。

堤防の改修があって、元々のお家は堤防の内側になってしまって

私が小学生の頃、国か県に買い上げられたように聞いています。

もう廃屋になっていたそのお家を買い上げられる前に見に行った記憶があります。

本家と呼ぶお家は その北方町にあります。

オオババサマのお父さん、健吉さんが出たお家の本家。

多分、そのまたお父さんとかの実家なのかと思いますが。。。

健吉さんという方は、ニューギニアで戦病死されていますが

三兄弟のうち2人が戦争で亡くなっています。

唯一生きて帰ったのが岐阜の叔父さんと呼んでいた岐阜市で食堂していた方。その叔父さんのお店に行くと、叔父さんのお母さん、

つまりオオオババのお祖母さんがいらっしゃいました。

私が会いにいった頃は80歳代の後半から90歳すぎぐらいで

もう髪も皮膚もみんな真っ白いお祖母さんでした。

この方はつまり3人男の子をみんな戦争に取られて2人亡くしたんです。

ババサマは初孫だったらしくて子どもの頃とても可愛がってもらったとか。

つまり、その子どもである私は、そのお祖母さんのひ孫というわけです。

岐阜に行くときは、よく長良川で泳ぎに連れていってもらいました。

ババサマと、ババサマの弟(コウチャンニイチャン)と私と弟。

河原に 夏の小屋がけのお店が出ていて

海水浴の夏の家みたいに、ちょっとした飲み物や味噌おでんや氷なんか売っていて

着替えなどもさせてくれました。

ここで食べさせてもらった味噌おでんの美味しかったこと。笑。。

鵜飼をする長良川ですので、向かい側には鵜飼で有名な料理旅館が並んでいました。

大きな石がゴロゴロしている河原を歩いて川に入ってちょっと泳ぎました。

もちろん浮き輪でです。

川なので流れもありました。

今はもう泳いだりできないのだろうと思います。

昭和30年代のお話しです。

 

カフェ・ナポリはその当時ではとってもおしゃれなお店だったようです。

女給さんもいて、裏の調理場ではコック帽をかぶったコックさんが

カレーのルーを手作りしていたとか。

ソーダ水やカクテルも出していたらしい。。

ババサマのお父さん、健吉さんは、奥さんを三人もらっていて

一人目の奥さんは、結婚してしばらくして病気で亡くなりました。

子どもがいなくて、その奥さんの実家のご両親が母によくしてくれたらしい。

二番目の奥さんは母を生んで、お産のトラブルで産後2週間ほどで亡くなって。

乳飲み子の母を見かねて、三番目の奥さんがきてくれました。

しずゑお祖母ちゃん。私の知ってる、とても可愛がってもらったお祖母ちゃん。

健吉さんは男前で、背が高く、新進の気質でとっても魅力的だったようです。

しずゑお祖母ちゃんには二人の子どもが産まれました。

チーコネエチャンとコウチャンニイチャン。

ですが、チーコネエチャンが2歳、コウチャンニイチャンが4歳、

オオオババが6歳の時に戦争にいって亡くなりました。

しずゑお祖母ちゃんとオオオババはそれから頑張って頑張ってお店をして

暮らしを立てて生きました。

木曽川のお家には大きな天井に届くようなお仏壇があって

その引き出しに健吉さんの爪が箱に入ってしまってありました。

戦争に行く前に切って置いていったそうです。

健吉さんが南方に行く前に呉の港まで

しずゑお祖母ちゃんが三人の子どもを連れて会いにいったお話しも

オオババサマが話してくれました。

切なくて辛いお話し。どこにでもあるお話です。

そして、それが一人ひとりの大切な物語

木曽川町往還南。。。今は昔のお話し。。。